なぜ私たちは豆を投げ、鬼を追い出すのか――#自由が丘熊野神社の節分祭で腑に落ちた日本人の知恵

2月3日、熊野神社の節分祭に行ってきました。
冷たい空気の中、境内には不思議と柔らかな熱気があり、年齢も立場も違う人たちが自然に同じ方向を向いていました。豆まきという一見ほほえましい行事の背後に、これほど長い歴史と人間の知恵が積み重なっているとは、正直なところ、この日まで深く考えたことがありませんでした。

節分とは、もともと「季節を分ける日」という意味を持っています。立春・立夏・立秋・立冬、それぞれの前日が節分ですが、現代では立春前日の2月3日を指すのが一般的です。つまり節分とは、単なる年中行事ではなく、「暦の節目」、言い換えれば世界が切り替わる瞬間を意味していました。

この「切り替わり」の時期は、古来もっとも不安定で、災いや悪いものが入り込みやすいと考えられてきました。そこで行われてきたのが「追儺(ついな)」と呼ばれる鬼払いの儀式です。平安時代の宮中行事として記録が残っており、疫病や飢饉、災厄をもたらす存在として“鬼”が象徴化されてきました。

では、その鬼を追い払うために、なぜが使われるのでしょうか。
ここには、節分ならではの興味深い由来があります。

豆には「魔(ま)を滅(め)する」=魔滅(まめ)という語呂合わせがあり、厄除けの力があるとされてきました。また、穀物には生命力が宿るという信仰があり、とりわけ大豆は神事に用いられる特別な存在でした。さらに、豆は必ず炒ったものを使いますが、これは「芽が出る=災いが再び起こる」ことを防ぐためとされています。こうした細かな決まりの一つひとつに、人々の不安と願いが込められているのです。

熊野神社の節分祭でも、豆がまかれる瞬間、場の空気が一気に引き締まるのを感じました。
「鬼は外、福は内」
誰もが知るこの掛け声ですが、実はすべての神社で同じとは限りません。鬼を祀る神社や、鬼を守護神とする地域では「鬼は内」と唱えることもあります。このことから分かるのは、日本では鬼が必ずしも絶対的な悪として扱われていないという点です。

鬼とは、外に存在する恐ろしいものだけではなく、人の心の中に潜む欲や怒り、慢心や怠惰の象徴でもあります。そう考えると、本当に追い払うべき鬼とは、他者ではなく、自分自身の内側にいる存在なのかもしれません。そして「福」もまた、どこかから与えられるものではなく、自らの内に迎え入れるものだといえます。

豆を投げるという行為は、単なる厄払いではありません。一年を無事に過ごせたことへの感謝であり、これから始まる新しい季節をきちんと生きていこうとする意思表示でもあります。熊野神社の境内で、子どもが笑い、大人が静かに手を合わせ、知らない人同士が同じ豆を拾う光景を見て、節分が人と人をゆるやかにつなぐ行事であることを改めて実感しました。

合理性が重視される現代において、鬼や豆は非科学的なものに見えるかもしれません。しかし、目に見えない不安とどう向き合い、社会の中でどう折り合いをつけて生きるかという問いに対して、日本人は千年以上、この形で答え続けてきました。

節分とは、厄を払う日であると同時に、
「また一年、人として丁寧に生きていこう」と静かに心を整える日なのだと思います。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次