恩送りファンドを始めてから、
自分自身に何度も問い返していることがあります。
支援とは、どこまでが支援なのか。
そして、いつから管理になってしまうのか。
お金を出す。
応援する。
見守る。
言葉にすれば、とてもきれいです。
けれど、現実はそう単純ではありません。
支援には、どうしても
「ちゃんと使われているだろうか」
「役に立っているだろうか」
という気持ちがついて回ります。
その瞬間から、
支援は少しずつ形を変え始めます。
世の中には、
とてもよく設計された支援の仕組みがあります。
課題が整理され、
目標が設定され、
成果が数値で確認できる。
それ自体は、決して悪いことではありません。
むしろ、継続のためには必要なことでもあります。
ただ、恩送りファンドを考える中で、
私はどうしても立ち止まってしまいました。
それは、本当に「恩送り」なのだろうか。
条件が増えるほど、
確認項目が増えるほど、
そこには「正しくあること」が求められます。
気づけば、
支援する側が安心するための仕組みになってはいないか。
支援される側が、説明する役割を背負ってはいないか。
そんな違和感が、
心の奥に残り続けています。
恩送りという言葉には、
もともと「返さなくていい」という前提があります。
返済も、成果報告も、
感謝の言葉すら、必須ではない。
それなのに、
私たちはなぜか
「何かを受け取らなければ」と考えてしまいます。
数字。
実績。
成功事例。
それらがなければ、
支援した意味がないような気がしてしまうのです。
でも、それは本当でしょうか。
もし、
誰かの人生の途中に、
一瞬でも「余白」が生まれたとしたら。
それは、成果と呼べないのでしょうか。
恩送りファンドは、
効率の良い仕組みをつくる実験ではありません。
むしろ、
決めすぎないことを、あえて選ぶ実験です。
金額を細かく決めない。
条件を増やさない。
評価を急がない。
それは、無責任だからではありません。
信頼を前提にしたいからです。
もちろん、不安がないわけではありません。
「本当にこれでいいのだろうか」
「続けられるのだろうか」
その揺れは、今も消えていません。
けれど、
その揺れごと引き受けることが、
この実験なのだと思っています。
支援する側が楽になる仕組みは、
とても魅力的です。
判断基準が明確で、
迷わなくていい。
けれど同時に、
誰かの人生を
「管理可能なもの」にしてしまう危うさもあります。
恩送りファンドでは、
その境界線を、
できるだけ曖昧なままにしておきたいのです。
はっきりさせないこと。
決めきらないこと。
言葉にしきれない感覚を残すこと。
それは、
未完成でいる勇気なのかもしれません。
この実験には、
明確なゴールがありません。
成功とも、失敗とも、
まだ呼べない場所にあります。
ただ一つ言えるのは、
これは「正解を急がない人」のための実験だということです。
問いを持ち続けたい人。
すぐに答えを出さなくても耐えられる人。
誰かの人生を、
自分の安心材料にしないと決められる人。
そんな人と、
静かにつながれたらいいと思っています。
次回は、
「続けるために、あえて決めないこと」
について、もう少し具体的に考えてみます。
まだ形にならない部分こそ、
この実験の中心にあるのだと思うからです。
答えは、ここにはありません。
けれど、問いだけは、
これからも手放さずにいたいと思います。

