会社勤めをしていると、名刺はごく当たり前のビジネスツールであり、特に意識することもなく使われていました。営業先や社内外の人との初対面では名刺交換を行い、それを名刺入れに収める一連の動作は、ある種の儀式のように自然と身に付いていたように思います。
私自身も、サラリーマン時代には名刺を特別視することはありませんでした。しかし、その「当たり前」が、ある日ふと重く感じられる瞬間が訪れました。それは、早期退職をしたときのことです。
退職して間もない頃、私は会社という「所属」も肩書きもない状態になりました。当然、自分を紹介するための名刺も持っておらず、数十年ぶりに「名刺のない生活」に足を踏み入れることになりました。そのとき、思いがけず虚無感?や無力感?のような感情にとらわれたのを今でも覚えています。
長年、「○○会社の△△部、□□です」と名乗るだけで得られていた信頼や存在感が、言葉だけで説明するのは一連の所作だけでは時間が不十分で不思議な感覚に・・・。たかが一枚の紙きれにすぎないのですが、あの名刺には、予想以上に多くの意味が込められていたことに、退職して初めて気づいたのです。
近年、名刺の役割も少しずつ変化しています。特にリモートワークが普及してからは、対面で名刺を交換する機会が少なくなっており、名刺の印刷枚数も全国的に減少しているといいます。ZoomやTeamsなどのオンライン会議が日常となった今、初対面の挨拶も画面越しに行われることが珍しくありません。メールの署名欄やSNSのプロフィール欄が、いわば「デジタル名刺」のような役割を果たしているとも言えるでしょう。
時代の流れとともに、名刺の存在価値も揺らいでいるのかもしれません。かつて、手紙やはがきが主要なコミュニケーション手段だった時代から、メールやチャットへと移り変わったように、名刺もまた「古き良きもの」として役目を終えていく日が来るのかもしれません。
それでも私は、名刺には単なる情報の伝達以上の意味があると感じています。それは、「名乗る」という行為を通じて、相手に対してだけでなく、自分自身に対しても、自分の立場や想いを明確にする、象徴的な行為であるということです。特に、定年や早期退職を迎える50代・60代にとっては、会社の肩書きがなくなったあとに「自分は何者か」を見つめ直す、大きな節目となるのではないでしょうか。
私自身、名刺がない日々を経て、幸いにも「新しい名刺」を自分自身の手で作ることができましたが、自ら立ち上げた小さな事業の名刺でした。最初は手探りで、肩書きも「代表」や「統括」など、しっくりくる言葉を見つけるのに苦労しましたが、自身オリジナルの名刺は、それまでとは違う感情を伴って交換するようになりました。
セカンドライフにおける名刺とは、自分が何者であり、何を大切にして、どんな人生を歩みたいのかを表す“自己宣言”のような存在になると思います。いままでは誰かから与えられた肩書きでしたが、自分で選び取った肩書きを名乗ることが、人生の第二章の始まりを告げてくれるのかもしれません。50代、60代という人生の節目に、どんな名刺が自分にしっくりするのか一度イメージしてみるのもいいかもしれません。