私がベトナムに赴任したのは1998年2月のことです。ベトナム・ホーチミン市に、東南アジアを含め初めての拠点となる駐在員事務所設立がミッションでした。たった一人で100万円(当時のレートで約7,000ドル)だけを持ち、成田からホーチミンへの直行便がなかったため、関西空港から心細く搭乗したことを今でも鮮明に覚えています。初めての海外赴任であり、現地での協力会社もなく、もちろん社員も得意先もない、まったくのゼロからのスタートでした。ただ唯一の協力者として、すでに現地で仕事をしていた日本人のS氏がいました。
最初の数か月はホテルに長期滞在し、ビジネスセンターに仮事務所を構えて営業活動を始めました。半年以内に事務所物件を探し、移転準備を進め、秘書を雇い、最低限会社として機能する体制を整えることが最初の目標でした。ホテル内の事務所では、当時誰でも自由にホテルに入れるわけではなく、オフィスとして商談するには適していなかったためです。
当時のホーチミン市は急速に発展していたものの、インフラはまだ整っていない部分が多く、ビジネスの立ち上げには多くの困難が伴いました。オフィス物件の選定、適切な協力会社の確保、施工会社との打ち合わせ、事務所のリノベーション、電話の引き込みなど、非常に基礎的なところから業務がスタートしました。
ビジネスは基本的に英語で行われましたが、ビジネス慣習や文化の壁にも直面し、ストレスで500円玉くらいの円形脱毛症ができるほどでした(今では笑い話ですが)。ベトナムは当時、社会主義国家から市場経済へと移行する過程にあり、法規制や税制の変更にも対応する必要がありました。
私は日本で培った経験を活かしつつ、現地のビジネス環境に適応するための戦略を模索しました。しかし、焦っても一人でできることには限界がありました。事務所の施工と並行して、日系企業に進出の挨拶回りをし、ベトナム人とのコミュニケーションを円滑にするため、英語とベトナム語の学校にも通いました。既に駐在している方々にもできる限り心得を教えてもらい、情報収集に努めました。1年間は売上ゼロの日々が続きましたが、この時、仕事があることへの感謝を強く感じるようになりました。これまで仕事がないという経験はなかったからです。
駐在員事務所時代に5年間、そして現地法人設立から軌道に乗るまでの5年間、計10年間ベトナムに駐在しました。この経験が私の起業家精神を鍛え、後に50代からの起業へとつながる大きな動機付けになったのだと思います。
ゼロから何かを立ち上げる経験は、50代からの起業にも多くのヒントを与えてくれました。限られたリソースで事業を展開する方法や、リスクを最小化しつつ機会を捉える戦略などです。起業には常に不確実性が伴いますが、その不確実性に柔軟に対応する力が成功の鍵となります。
海外でのビジネスでは、不確実性の振れ幅が大き過ぎて、時に柔軟性だけでは対応できない事も起こったこともあります。ある時、私の名前と会社名が偽造署名と偽造社印を使って不正利用され、中国から中古複写機を違法輸入したという疑いで警察に呼ばれたことがありました。また、別の時には飛行機のエンジンが片方停止し、空港に引き返す緊急事態に直面したこともありました。緊急着陸で消防車に挟まれた滑走路に降りた際は歓声を上げましたが、機内で警報機が鳴った時は乗客全員がパニックにならず、ただ覚悟を決めてフリーズしていたことを鮮明に覚えています。よく「走馬灯のように過去の出来事が思い浮かぶ」と聞きますが、私の場合は「あの借金をどうすればいいのだろう」と思っただけでした。
帰任する時には34名の社員とお得意先様にも恵まれ(今でも年二回ほど食事をご一緒していただくような)、ベトナムは5市58省ありますが、5市53省イベントでキャラバンするほどベトナムとの関係性はとても濃密な時間と経験になりました。
会社のミッションではありましたが、自分の会社のような疑似体験は、定年が真近になるにつれ、会社に対して辞めるつもりも不満も全くなかったわたしでしたが、いつかは辞めなければならない現実に、社会人として現役を如何にして続けるかの大きな説得材料になっていったのだと思います。
「起業」と聞くと大きなリスクを伴い、未知の世界への不安があるかもしれません。しかし、65歳以降の再雇用先を確保することも同様にリスクを伴います。現在ではインターネットやリモートワーク、オフィスレンタルなど、ローリスクで起業できる環境が整っており、何より50代の方々は若い世代にはない経験や人脈を持っています。50代のうちに準備を整え、間接費の内製化を図ることで、リスクと投資資金の最小化を実現できると考えています。万が一、起業がうまくいかなかったとしても、再就職に戻るという選択肢、これも含めてのマイクロ起業コンシェルジュの考え方です。